ライプツィヒの街には、時代で大きく分けるとつぎの5つの種類の建築が混在しています。
1.中世の歴史的建築物
2.「グリュンダーツァイト」の建築
3.二次大戦前の近代建築
4.東ドイツ時代の建築と「プラッテンバウ」
5.東西ドイツ統一後の現代建築
今回は時代順にライプツィヒの建築たちをご紹介しましょう。
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1.中世の歴史的建築物
ライプツィヒの中心市街地には市役所、教会など幾つかの中世の街並みを形成する歴史的建造物があります。中でも中心市街地のマルクト広場に建つ旧市役所(Altes Rathaus, 1556年〜)【写真】、ライプツィヒで一番大きい教会であるニコライ教会(Nikolaikirche, 1165年〜)、J.S.バッハがオルガンを弾いていたトーマス教会(Thomaskirche, 1212年〜)などは美しくメンテナンスされ、観光客にも人気のスポットとなっています。
2.「グリュンダーツァイト」の建築
1840年頃からドイツは産業革命を経て工業化の時代を迎えます。ドイツ史ではこの工業化によって経済・産業構造が大きく変わった19世紀の中盤〜後半の時代を「グリュンダーツァイト(Gründerzeit)」と呼びます。地理条件の良かったライプツィヒには瞬く間に産業の集積が起こり、人口が激増しました。それに伴い、近隣の村や町を飲み込んでライプツィヒの市域が拡大し、新たに多くの住宅地や工業地が出現しました。
このような産業の発達とともに都市部に新興の富裕層が集まり、彼らの手によってネオ・ゴシック、ネオ・バロック、ネオ・ルネッサンス様式の建築が数多く建てられました。これらの様式は後に「歴史主義建築(Historismus)」と総称され、特徴は、ファサードに過去の様式から引用された様々な装飾を施す一方、階段室や室内にタイルや鋳鉄の装飾を用いるなど、工業化によって可能になった新たな技術が用いられていることです。
この嗜好を凝らした装飾をまとった建築群が、一直線に計画された道路に面と高さを揃えて連続して建っている風景こそ、典型的なグリュンダーツァイトの街並みです。【写真】
またこの時代には住宅だけでなく、工場、商店、病院、学校、新市役所(Neues Rathaus, 1905)などの公共施設も次々と建てられました。現在のライプツィヒの都市基盤は、まさにこの時代にできたといえるでしょう。
しかしながら現在、多くのグリュンダーツァイト建築はメンテナンスが行き届かず、建物の劣化という深刻な問題を抱えおり、貴重な歴史的建造物が危機に瀕しています。またメンテナンスされていない住戸は住みづらいため、空き家問題も深刻です。
(c)Stahlbauer
(c) Cowboy
3.二次大戦前の近代建築
20世紀初頭には人口が70万人を超え、ドイツ国内でも有数の産業都市へと成長を遂げたライプツィヒ。国鉄の本駅(Leipzig Hauptbahnhof, 1915)は底面積83,460㎡の欧州随一の規模を誇る駅舎で、当時の商都・ライプツィヒの隆盛を示す、鉄、ガラス、石を組み合わせた大空間です。【写真:完成当時と現在の様子】
またこの時期、バウハウス運動に代表されるように、ドイツでは近代建築運動が盛んになります。建築家のフーベルト・リヒター(Hubert Richter, 1886-1967)は、アール・デコの影響を受けた「新グラシー美術館」(Neues Grassymuseum,1925)【写真上】、バウハウススタイルの市民プール「ヴェストバード」(Westbad, 1928)【写真中】、伝統にとらわれない新たな集合住宅の形を提案した、直径300mの円形の集合住宅「ルンドリング」(Rundling, 1929)【写真下】など、この時代を反映した特徴的な作品をいくつもライプツィヒに残しています。
しかしナチスの台頭とともに近代建築運動は弾圧され、代わりによりモニュメンタルな志向をもった建築が生み出されました。アルテメッセのメッセハレ20(Alte Messe Halle 20)は代表的な国家社会主義時代の建築です。
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4.東ドイツ時代の建築とプラッテンバウ
戦争によってライプツィヒの都市は大きな被害を受けました。戦後の都市復興計画を指揮したのは東ドイツの共産主義政権です。まず戦後直後から50年代にかけての一時期、通称スターリン様式(Sozialistischer Klassizismus)という社会主義の発展をアピールする大変モニュメンタルな建築スタイルが用いられました。ライプツィヒではのローシュプラッツの建物(Roßplatz Leipzig, 1955)がその代表例です。【写真】
しかしその後すぐに近代建築が見直され、市内中心部に次々とモダンな建築が生み出されていきました。シティ・ホーホハウス(City-Hoch-Haus,1972)【写真右】やヴィンターガーテンホーホハウス(Wintergartenhochhaus, 1972)などの高層ビルは、現在でもライプツィヒのスカイラインを形作っています。またライプツィヒを代表する文化施設である、オペラハウス(Opernhaus, 1960)とコンサートホールのゲヴァントハウス(Gewandhaus, 1981)【写真左】もこの時代に完成しました。
一方、郊外では新たな労働階級のための都市計画と住宅開発が進みました。褐炭の炭鉱開発が進み、それに伴い工業地帯が新たに整備されたことも手伝って、ライプツィヒ近郊に大型の団地が計画され、団地と市内、工場を結ぶ新たな産業道路や近郊電車などのインフラが整えられました。グリュナウ(Grünau)は1960年代から建設が始まったライプツィヒの代表的な大型郊外団地で、ピーク時の1989年には8.5万人の人が住んでいました。【写真】
これらの団地を始め、この時代の 集合住宅の大半には、「プラッテンバウ(Plattenbau)」と呼ばれる新工法が用いられました。これはプレハブ工法で、工期を飛躍的に短くすることが出来きるうえ、コストもおさえることが出来、安価な住宅の大量生産が可能でした。また当時としては最新のキッチンや暖房機器が備え付けられており、便利で快適な暮らしを実現するプラッテンバウに暮らすことは、庶民の憧れだったそうです。一方でブルジョア階級の象徴であった市内のグリュンダーツァイトの建築群は、この時代にはあまりメンテナンスがなされず、冷遇されていました。
しかし東西ドイツ統一後、プラッテンバウに住む人の人口は激減し、郊外団地では空き家問題が大変深刻になっています。現在では無人となったプラッテンバウの取り壊しが進んでいます。
5.東西ドイツ統一後の現代建築
東西ドイツの統一後、人口が減り一時期経済が低迷しましたが、近年のライプツィヒは再び開発ラッシュに湧いています。Gerkan, Marg und Partner設計による総ガラス張りのメッセ会場(Leipziger Messe, 2008)【写真】、Zaha Hadid設計の幻想的なBMW工場(BMW Central Building, 2005)などの現代建築が完成しています。そして現在最も注目されているプロジェクトは、駅の目の前にあった4棟のプラッテンバウ団地とデパートを取り壊したあとに建設中の、総床面積44万平米に及ぶ商業・住宅・オフィスのコンプレックス、へーフェ・アム・ブリュー(Höfe am Brühl, 2012年秋オープン予定)です。これによってライプツィヒの顔が今、大きく変わろうとしています。
(大谷 悠)