ライナー・ミュラー(Rainer Müller)氏は1966年にライプツィヒ郊外の街ボルナ(Borna)に生まれた。
旧東ドイツで少年時代を過ごすうちに体制と社会に疑問を持つようになり、80年代後半からライプツィヒで民主化運動の先頭に立ち活動を行った。
89年の民主化後、大学で歴史学を学びつつ、当時空き家だらけだったライプツィヒ西地区のリンデナウで、空地・空き家の再生をベースにコミュニティ活動を行うようになった。ミュラー氏らの立ち上げたハウスハルテン(HausHalten e.V.)や隣人の庭(Nachbarschaftsgarten e.V.)などの取り組みは、現在ではライプツィヒを代表する地域再生プロジェクトとして大きく成長している。
_ _ _
■ 東ドイツの民主化運動とミュラー氏
― この一枚の写真から話を始めたいのですが、これは天安門事件の直後89年7月に取られた写真ですね?
そうです。一番左のプラカードを持っているのが若い頃(当時23歳)の私です。天安門でおこった若者たちに対する国家の暴力に抗議するためのデモでした。東ドイツのメディアは北京での事件について一切報道しなかったので、 我々はこの事件を西側のメディアを通して知りました。当日はライプツィヒの郊外で教会の大きなイベントがあり、コンサート、ミーティングそしてミサのために5万人が集まっていました。私は前もって図書館に行って、”Demokratie(民主主義)”を漢字でどのように書くのか調べ、家でこのプラカードを作っておきました。教会のイベントが終わったあとで、仲間とともに人々に呼びかけ、このプラカードを掲げて中心街まで歩きました。途中からたくさんの人が合流し、約1000人もの人が一緒に歩きました。この数は当時の東ドイツで起こったデモとしては最大の数でした。例えば88年におこった最大のデモは200人程度でした。旧東ドイツでは自由にデモをすることが出来なかったので、多くの人にとって、人生ではじめてのデモだったのです。
–
― デモに参加した人々はどんな人達ですか?写真を見る限りでは若い人が多そうですね。
ベースにあったのはキリスト教の青年グループです。家族を持たない青年たちがデモの先頭に立ちました。一方、子どもがいる人々にとって、デモに参加することはとてもリスキーだったのです。自分たちが逮捕されると、子供が政府の孤児院に送られてしまう可能性がありました。そうならないように万が一逮捕された時のため、子供を知人や親に預ける委任状を書いていました。しかし多くの場合、逮捕されることを恐れる必要のない若者がデモに積極的に参加していました。(写真のある人物を指して)ちなみにこの人はシュタージ(東ドイツの秘密警察・諜報機関)の人間でした。この時は一緒に行進していましたが、あとになって我々の活動を内偵していたことが分かったのです。
–
― プラカードはこの一枚だけですか?
もう一つ小さいプラカードもありましたが、それだけです。東ドイツ時代におきたデモでは、ほとんどプラカードが使用されませんでした。有名な89年10月9日の月曜デモの写真を見ても、ほとんどプラカードは使用されていません。万が一、デモに参加する途中で警察に反体制的なことが書かれたプラカードが見つかってしまうと、確実に逮捕されます。みなそれを恐れていたのです。
–
― しかし当時の東ドイツの正式名称は「ドイツ民主共和国」ですよね?「民主」と書かれたプラカードは何ら問題ないのでは?
変な話ですが、そういうものでもなかったのです。東ドイツで使われていた言葉は、本質の抜け落ちたものでした。言ってみれば当時は「ドイツ」でも「民主」でも「共和国」でも無かったのです。東ドイツはドイツのごく一部の地域ですし、一党独裁政権ですし、秘密主義の横行する国でした。
–
― デモは途中で妨害にあいましたか?
もちろん妨害されました。たとえばデモ隊に路面電車が突っ込んで来ました。運転手は「たまたまだ」といっていましたが、その車両には東ドイツ共産党の党員がのっていて、運転手にデモ隊に突っ込み、動きを止めるように命じていたのです。その場でプラカードも警察に没収されてしました。それでも我々は行進を続けましたが、今度は警察が隊列を組んで行く手を阻みました。違う道へ迂回するとそこにも警察がやってきて何度も何度も妨害されました。それでも歩き続けていると、ある教会の扉が空いていたのです。これは普通のことではありません。東ドイツでは教会の活動が大変限られていたので、日曜日のミサの時間以外は閉まっているのです。その日はしかし、シュタージが教会に要請し、わざと扉をあけさせていたのです。路上という公共の場でデモが行われている状態は、人数がどんどん増え、暴動に発展する可能性があり、彼らにとって好ましくないので、教会の建物の中に閉じ込めて、内輪のイベントであるという事で済ますためだったのです。
–
― しかし東ドイツ時代の教会は、自由や民主主義を求める人々を支援していたのではないのですか?
一般的にそう思われているかも知れませんが、教会の上層部はむしろ国家に協力的な人が多かったのです。私が考えるに、東ドイツには自由な「結社」というものは実質存在せず、あったのは個人と国家だけです。国家が個人を直接コントロールしいている社会だったのです。教会も例外ではありません。また我々の活動は教会の上層部が公認していたわけではなかったのです。我々と教会上層部はつねに緊張関係にありました。 一方で、当時の教会という場所は、あなたの言うとおり、我々にとって自由に集まり、議論したりグループを組んだりできる唯一といっても良い場所でした。しかし時間は非常に限られていました。例えば、月曜デモが行われていたニコライ教会では、人々が教会内で自由に話せたのは月曜日の17時から18時までの一時間だけでした。特に88年、89年になると、教会から出てきた人々、例えば若者が「髪が長い」という理由で逮捕されたり、「広場で叫んだ」という理由で婦人が逮捕されるようになっていました。毎週のように見せしめのために逮捕者が出たのです。逮捕されれば当然監獄行きです。目の前でそんな警察の暴力が行われていたにもかかわらず、教会は一度閉めたドアは一切開きませんでした。教会の組織そのものは決して我々の行動をサポートしていたわけではなかったのです。牧師にしても、我々の側に立ち共に行動したのは本当に極少数だけでした。
–
― そのような難しい状況の中で、どのようにグループを組織していったのですか?
周りの人々に直接呼びかけていったのです。新聞やテレビは当然使えませんから、口コミで少しづつ広げていきました。 あとは教会の掲示板に手描きで書いたポスターを貼ったり、教会内の小さな情報誌に情報を載せました。集まる場所はいつも教会内でした。人々はそこではじめて自分の意見をオープンに述べることができたのです。学校や会社では国や社会に対する不満や自分の意見をいうことはまず不可能だし、自由な議論も出来ませんでした。 ポスターを作る時、注意しなくてはならなかったのは、ダイレクトに「人権について議論しよう」とか「自由について議論しよう」というふうには絶対に書けないということです。常に暗号のように言葉を選んで、分かる人には伝わるようなポスターを作りました。聖書の言葉や歌の歌詞を引用したり、言葉遊びをしたりと工夫しました。例えば、東ドイツ時代は「環境問題」という言葉はタブーでしたから、「“創造物 (Schöpfung)”について議論します」と書きました。(訳注:Schöpfungは聖書の言葉で、神が作った「創造物」「天地」「森羅万象」「宇宙」などを指す)組織のメインはこの社会を変えたいと考える若者ですが、同時に少し年長の世代の人々で、この国からら脱出したいと思っている人々も我々に協力しました。60年代に壁が作られる前であれば、比較的自由に西側へ脱出できたのですが、その機会を逃した人々です。ひどい言葉があって、西側に脱出した人々は、東ドイツに残った同世代の人々の事を、DDR(ドイツ民主共和国の略)を文字って”Der Dumme Rest”(残った愚か者たち)と呼んでいました。この”愚か者”たちはしかし未だに西側への亡命を希望していて、西側とコネクションも持っていたので、万が一捕まっても西ドイツ政府が保釈金を出し、西側に引き取ったのです。保釈金は一人あたり8万マルク(日本円で600万円ほど)くらいで高額だったので、東ドイツ政府にとっても悪い話では無かったのです。彼らは逮捕されても釈放される見通しがあったので、逮捕を恐れず積極的に私たちの活動を支援してくれました。
–
■ 「自由ドイツ青年団」への入団拒否と弾圧
― 少し時間軸を戻しますが、あなたは十分な学力を持ちながら、学校から大学進学の権利を剥奪されたのですよね?
そうです。東ドイツの基準では当然無理でした。東ドイツでは教育の自由もなく、共産党が大学に進学する人を選別していました。東ドイツでは、8年生(14歳)になるとほとんどすべての子どもが共産党主催の「自由ドイツ青年団」に加入しました。加入は表向きは〈自由〉でしたが、実質的には義務で、読書会、演劇、遠足などのイベントを通して党が理想とする人間像を叩きこむ場所でした。「青年団」に加入しなかった子供は、反動分子としてマークされ、その後高等教育を受けることはまず不可能でした。他にも様々な圧力を受けました。学校では年に一回、1週間ほどの旅行に行きます。森でキャンプをしたり、海へ行ったりします。しかし「青年団」に加入していない我々は参加を許されませんでした。また子供が「青年団」にしていないと、本人だけではなく、両親の人生にも影響を及ぼしました。私はライプツィヒ郊外の村に住んでいましたが、私を含め4人の子供だけが「青年団」に加入することを拒みました。そのうち一人は、お父さんはハンターだったのですが、娘が「青年団」に加入しなかったために、狩りができなくなりました。森に入る許可がもらえなくなり、狩り仲間が彼を仲間はずれにしたりと明らかな圧力をかけられたのです。危機を感じた家族は娘を説得し、彼女は「青年団」に加入しました。しかし村中の人が、彼女が青年団に加入したのは、父親のためであることを知っていたのです。このように、「青年団」に加入するかどうかという事は、本人だけでなく家族も巻き込む問題だったのです。子供が「青年団」に入らないという決定をした場合、その両親も相応の弾圧を受けることを覚悟せねばなりませんでした。私の家族は、私の決定を受け入れて共に戦ってくれたのです。
–
― 学校でも様々な圧力を受けたのですね
そうですね。しかし実際のところ、子どもたちは大人の言うことを全く信じていませんでした。本当は多くの子供が共産党のプロパガンダを馬鹿にしていましたし、おかしいことに気づいていました。しかし弾圧を恐れ、「合わせる」しか無かったのです。でなければ自分のキャリアが台無しになります。
–
― あなた自身は怖くなかったのですか?
それは私には重要ではありませんでした。「青年団」に入り政府に協力することが単純に嫌だったのです。9年生(15歳)の時、服装の事で咎められ、私は校長室に呼ばれました。聖書の言葉を引用したワッペン(訳注:「剣を鋤に」[Schwerter zu Pflugscharen]元は聖書の言葉で、東ドイツの反戦・民主化運動の合言葉となった)をつけていたのです。校長は私に、その服を着て学校に来てはならないと言いましたが、私は全く納得しませんでした。家に帰り、私は東ドイツにおける自分の運命が決まったと実感しました。今後一生高校に行く事は許可されず、大学入学資格も得られず、良い仕事につくことも不可能になった。それでも何とか生きていくために、楽しくなかったとしてもどんな仕事でもしなくてはいけない。そうやって定年までこの国で我慢して働くのだと。(東ドイツでは定年を迎えれば国を去ることが許された)15歳で自分の人生が決まったことを実感しました。また、逮捕され刑務所に送られる可能性もまた常に付きまといます。
–
― その後はどのような活動をしたのですか?
学校卒業後、私は左官職人の修行をしつつ、様々な教会のオーガナイズする社会活動に参加していました。例えば現在の「近隣の学校(Nachbarschaftsschule)」となるプロジェクトに東ドイツ時代から参加していました。東ドイツ時代、教育や職業訓練はすべて共産党が一元的にコントロールしていました。これに対し、我々は共産党の手を離れたところで独自に教育や職業訓練を行う場所を作りました。母体となったのはプロテスタントの団体と、後に新フォーラムという政治団体を立ち上げた人々でした。89年の民主化後に正式な教育機関となり、現在でも続いています。95年からは私の一番上の娘が通い始めました。学年でわけずにフレキシブルに授業を行うのが特徴です。
–
■ 民主化運動から地域コミュニティへ
― 東ドイツ時代にデモや集会を通じて民主化運動の先頭に立っていたあなたは、壁の崩壊後に地域コミュニティベースの活動を積極的に行うようになりました。それはなぜですか?
確かに私は私は東ドイツ時代は確かに民主化運動:平和と人権イニシアティブ(Initiative Frieden und Menschenrechte)のライプツィヒでのリーダーの一人でした。しかし民主化を達成した後、もういちど最初から、一番「下」つまり「地域」からやり直す必要があると考えました。多くの人がそう感じていたはずです。国家や社会が全く新しい体制になり、我々は新たに学び直す必要がありました。また家族を持った事は大きく影響していると思います。家族が出来ると、子育てをする場所が大変重要になってきますし、例えば原発反対運動をしたり反戦運動をするには何週間も家をあけねばならならず、家族がいると難しい。家族と政治参加を両立させようと考えると、必然的に生活の空間が活動の場となってきます。どんな時でも重要なことは、小さいことから活動をはじめて大きく育てることです。私の性格も関係しているのかも知れませんが、私は生活と政治活動を切り離して考えることはしません。環境問題について活動しているのにもかかわらず、大きな車を乗り回したりするのは矛盾しています。私自身がまずやってみせて、人々を納得させるのです。身近なところから活動を始めて、ライプツィヒ市、ザクセン州、連邦政府というように大きく広がっていくのが理想です。グローバルに考え、ローカルで実践するという考え方です。一緒に活動していた仲間も、多くの人々がそのように考え行動しています。
–
― ライプツィヒのリンデナウに活動拠点を定めたのはなぜですか?
たまたまです。東ドイツ時代からこの地域は馴染みがありました。本格的に活動を始めたのは、90年にリンデナウでオフィスを借りた時からです。デメリング通り21番(Demmeringstr. 21)で、後のヴェヒターハウス(Wächterhaus:ハウスハルテンのプロジェクト)第1号となる物件です。ここをライプツィヒ民権運動(Bürgerrechtsbewegung Leipzig)のオフィスとして借りると同時に近所に引っ越してきたのです。その後、リンデナウ市民協会(Bürgerverein Lindenau)という市民団体を立ち上げ、この団体がベースとなって2001年に現在のリンデナウ地区協会(Lindenauer Stadtteilverein)を立ち上げました。当時は本当に空き家というか廃墟だらけで、通りにはゴミが散乱するひどい状態でした。この状態を少しづつ改善して、住める状態にしていくことから活動が始まりました。
–
はい。他にも、例えば現在ゲオルグシュヴァルツ通りで行われている地域マネージメント団体も、LSVが立ち上げに参加しました。我々は常に地元のパートナーとプロジェクトを立ち上げ、一緒に戦略を考えます。その後プロジェクトが軌道に乗ったら、我々は手を引き、彼らに任せます。そしてまたサポートすべき別のプロジェクトを探すのです。ハウスハルテンプロジェクトもそのようにして始まりました。最初はLSVが独自に始めたプロジェクトでした。これが非常にうまくいったので、LSVから独立させ、2003年にHausHalten e.V.という名前で新たな団体を作りました。現在ではライプツィヒだけでなくドイツ中に同じような団体が立ち上がっています。隣人の庭プロジェクトにしても同じです。最初はLSVのプロジェクトでしたが、参加する人が増え、内容も固まってきてた後Nachberschaftsgärten e.V.として独立し、LSVから土地を譲り受けました。このように、LSVは様々な市民団体を生み出してきました。その他にも教育、社会、文化財保全、歴史、文化の継承、そして都市計画・交通計画といった分野まで多くの取り組みを行なっています。特に都市計画は重要です。子供を安心して遊ばせられる場所づくりには、計画側の視点と知識が不可欠です。 子育てに良い環境を作ることは、地域再生の基礎です。
–
― 幅広い活動のためには、それぞれの分野に精通している人材が必要ですよね?
はい。LSVのメンバーは約30人ですが、プロジェクトを通じてたくさんの人々とつながっています。地元には 建築家、ランドスケープアーキテクト、都市計画家など。 様々な専門性をもった人が住んでいます。我々はプロジェクトを立ち上げるに際して彼らを招待して、協働するのです。どんなプランニングがこの地域を良くするか、共に考えていきます。同時に行政の人々にも呼びかけます。我々は決して行政と対立しているのではなく、行政と共にプロジェクトを進めるのです。例えば、ライプツィヒ市は現在「空地は市民の夢のために」というプロジェクトを行なっています。これは「隣人の庭」をモデルにしていて、同じような事を他地域で始めたい人を支援するプロジェクトです。
–
― 現在ではライプツィヒ西地区は非常に人気が高くなり、多くのアクティブな人が集まってきていますね。
はい。とてもアクティブです。若者を始め多くの何か始めたいとおもっている人々が集まってきていています。ここには自由にやれる空間があります。若者がグループで空き家を改装し、団体を結成したD51というプロジェクトや、Lindenowという芸術を志す若者の新しい試みも始まっています。空き家や空地があるという事は、人々が夢を実現する絶好のチャンスなのです。
–
― 同時にあなたはリンデナウ地区のツアーも行なっていますね。
我々の最大の目標は、アイディアを夢で終わらせることでなく、アイディアを地域コミュニティ内で実現させることです。リンデナウ地区では既にその結果を見ることができます。私はツアーとう形で外部の人々にリンデナウ地区の市民によって実現されたプロジェクトを見せて回り、市民の力でプロジェクトを実現することが可能であることを人々に訴えています。多くの人はプロジェクトを気に入り、自分の地域でもそれを実現したいと考えます。この正の連鎖がどんどん続くことが好ましいのです。
–
■ ライプツィヒ西地区のジェントリフィケーション
― 一方で、最近では西地区の家賃が上がり、ジェントリフィケーションが始まっているのではありませんか?
それは心配する必要はないと思います。西地区をはじめライプツィヒにはまだまだたくさんの空き家や空地が残されています。単純計算、人口に対して適量の倍もの空間が都市にいまだに残されているのです。最近ではポーランドなどの隣国からきた人々が、旧東ドイツの都市の空き家に引っ越してきています。あなたの言うように西地区の家賃は少しづつ上がっています。しかしそれはそれで悪いことばかりでもありません。美しくリノベーションされた物件の家賃が高くなるのは当たり前のことですし、そこに住みたいという人々の要求に答えています。しかしまだ十分に空き家があります。お金が無くてもまだチャンスはいくらでもあります。
–
― 空地・空き家の過渡的活用(Zwischennutzung)という手法は期間限定で、ある意味不動産市場から見捨てられているからこそ可能であって、不動産価値が上がって開発圧力が強まると太刀打ちできなくなりませんか?どのようにしてせっかく作った市民のガーデンプロジェクトを守っていくのですか?
理論的には、例えば市がこの土地を市の公共の遊び場にする可能性もあります。しかしそうはなりません。普通、オープンスペースは市が維持費を出して管理していますが、これは市としてもコストがかかります。むしろ市民団体がみずから場所をつくり、地域に開放し、そこを維持してくれるなら大歓迎なのです。またガーデンプロジェクトなどの市民の活動によって周辺の環境が保たれているので、開発する側としても、不動産価値を維持するために、市民によるガーデンプロジェクトが周囲に有ることは有利に働くのです。
–
― しかし地主は過渡的活用の契約の終わった土地を開発する権利がありますよね。
あります。それもしかしあまり心配する必要はないです。リンデナウにはまだ十分な空地と空き家が残っています。ピーク時の半分以下の人口しか住んでいないのです。空き家の大家ときちんと話し合い、地域のための活動をここで行いたいと言えば、賛同する人は多い。市も協力的ですし、いくらでもチャンスがあるのです。ここでは不法なスクォッティングなどする必要もないのです。そのエネルギーをむしろ大家や市と交渉し、合法的に持続的に活動を行う環境を作ることに傾けるべきです。
–
― なるほど。よく分かりました。長い時間ありがとうございました。
–
2011年11月13日 ミュラー氏自宅にて
聞き手・翻訳 大谷 悠(日本の家)
– – –
リンク
>>地域の庭 (Nachbarschaftsgarten e.V.)
>>リンデナウ地区協会(Lindenauer Stadtteilverein e.V.)
_